薩摩琵琶・錦心流琵琶の歴史と永田錦心師の生涯

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この一文は錦心流琵琶の先輩である阿部西水師の執筆した文より抜粋したものです。

錦心流を興し、琵琶界に一線を画した永田錦心先生の生い立ちと錦心流の歴史について論じたものです。

建久七年に、盲僧琵琶の宝山検校が、源頼朝の命を受けた島津忠久につき従って薩摩に下り、この地に盲僧琵琶の根本道場・常楽院を建て、薩摩盲僧の始祖となった。

島津氏の中興の祖である島津日新斎忠良公が、歴代盲僧の中でも逸材といわれた淵脇寿長院の奏でる琵琶の音に心を動かされ、歌詞を自らも創作し、寿長院に作曲させたのが薩摩琵琶の始まりとされている。

やがて藩士自らも弾じ、士気の涵養に務め、不変の伝統を維持して今日に至っております。

降って明治37年の頃、薩摩琵琶の名手、平豊彦氏の演奏を聴いた永田武雄(錦心)少年が大いに感じ、のちに琵琶の道に入る影響を受けることになる。

永田武雄(錦心)先生は明治18121日、信州の人で厳父の永田一右衛門と母堂・きよ子の長男として、東京市芝区琴平町に生まれました。

先生は一般の子とは少し違っていて口数も少なく、近所の子らと一緒に遊ぶことは少なく物静かな性質であった。

但し神楽が非常に好きで祖母にねだって小さなお宮を買ってもらい、近所の子供たちを集めて、庭に神社を祀り供物を供え祝詞を上げ、神主のまねをして祭礼を行い武雄少年自ら太鼓を打って、一同に神楽を舞わせて遊ぶのが好きであったようです。

琴平神社の祭礼で神楽堂に上り太鼓をたたくのが非常に巧みで、東京で第一人者といわれた神楽師より養子に貰いたいという話があったという逸話が残っているほどです。

西久保巴町の鞆絵小学校に入学してからの永田先生は、絵画に著しい天分を発揮され、学童の作品展覧会にはいつも別格扱いで陳列されるのが例となっていた。

それに反して数学は嫌いで試験の答案には○○○と書いて提出し平然としていたそうです。

小学校卒業後中学には進学せず、親の反対するのも聞かず画家になる道を志し、ついにご両親は本人の希望を入れ絵画の先生を探し、予て知り合いであった、芝・桜川町石丸邸内の田口米作画伯のところに永田先生16歳の時に食糧持参で入門することになった。

田口画伯は雑誌などの挿絵専門の絵師であったので日本画のように絹を張って彩色するすべも知らなかったと後年先生は述懐しています。

田口画伯は永田先生が19歳の時に亡くなり、その後も画伯の仕事を引き継ぎ、画伯の遺族の生活費の面倒も見ていました。

両親は新たな師に就くことを勧めましたが2度も師を持つことは嫌いですといい、独力で絵画の研究に進まれました。

 

後日白馬会に入会され洋画を研究し一時期広業塾に籍を置かれたこともあったが田口画伯以外の師に師事することはなかった。

先生は内国勧業博覧会に「那須与一」を出品し入賞。大正4年の文展には「野武士」翌年には「仏敵」を2度連続入選の栄冠を果たされた。

その他にも「雁風呂、元寇、楊貴妃」などの名品を描かれています。

 

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先生は田口画伯に入門の頃より琵琶に興味を持たれるようになったようで、その頃先生の自宅近くに家弓熊介氏のお住まいがあり先生は何時もその門前に佇み漏れ聞こえてくる琵琶の音に聞き惚れていたようです。

遂に堪らず祖母にねだって琵琶を買い求め、自宅で頻りに琵琶をかき鳴らしては楽しんでおられた。元来、先生は左利きで右手に撥を持った格好は不器用に見えたので、左利きでは琵琶は上手になれないと笑われても、今に上手になって見せますよと平然としていたそうです。

当時、琵琶会といえば芝の不断院を初めとし、各所の寺院内で開かれるのが通例であったがいよいよ琵琶好きとなった先生は、暇さえあれば、田口画伯の書生部屋を抜け出して、各所の琵琶会を聴いて回った。

その頃の聴衆は野次で場内は喧騒を極めていた。先生は何時も舞台の正面を陣取り、初めより終わりまで熱心に傾聴していたので、いつもの熱心な少年が来ているよと、主催者側の評判となる位であった。

しかし田口画伯は先生の琵琶の趣味をあまり喜ばなかったようで琵琶教師になる機会がなく日は過ぎたが画伯の没後、自宅に戻るに及び、ある夜、麹町・内幸町で行われた琵琶の大演奏会で最後に琵琶の大家、吉水錦翁師が演奏された「吉野落ち」を聞き、その妙技にすっかり感激したのです。

以後琵琶に対する思いは益々白熱化し、良い師を求めているうちに、赤坂丹後町の肥後錦獅師のことを人伝手に聞き入門を願い出たが、書生に琵琶は教えられぬと断られたが、三度目には肥後氏の父君の口添えにより、先生十九歳の時に漸く入門を許される。

頑固一徹な肥後師の教授は厳格極まるもので情け容赦なく撥で打ち、左の指は糸が食い込み血の滲むことが珍しくなかったそうです。

こうして、先生が肥後師の教えを受けられたのは僅か三か月余りで実際の稽古日数は三十日位で、習った曲は二曲に過ぎず、その間に先生は肥後師の特色や琵琶音楽の神髄を会得されてしまわれた。

しかし先生は他には決して師を求めず、肥後師を一生の師と仰ぎ、肥後師の会といえばどんなに無理をしてでも無料で出演されていた。

昭和二年四月、本郷・梅本亭の肥後師の演奏会に病を押して無理な出演をされたので、これが先生最後の演奏となったのです。

 

明治三八年、先生二十歳の初夏、肥後師の紹介で吉水錦翁師の錦水会に入会し、初めて「錦心」の号を名乗ることになる。 

錦水会は毎月八の日に芝の不断院で琵琶会を開くのが恒例で、これは当時名高いものであった。

錦心先生は、そこでの公開演奏の初舞台で「母の教え」を演奏し聴衆を魅了「天才、永田錦心」の名は広く世上に知られた。

先生の練習は猛烈なもので、毎夜、芝浦の海岸に出て声を練り、あるいは愛宕山の墓地に入り、持参した生卵を墓石に割り、すすりながら月明かりに声を張り上げて謡い、またその頃、できたばかりの日比谷公園に毎夜琵琶を背負って出掛け、弾奏しながら園内を散策し、風流書生の名を新聞紙上に謳われたこともあった。

初め、先生は肥後師の節に馴染まず、吉水師の節にも習わず、当時人気の弾奏家、平豊彦師の節まわしを好み、更にそれに独創を加えて改良節と唱え、大衆に大変受けた。

従って他の弾奏家からの嫉妬、迫害が甚だしく、ある時は「速やかに琵琶会から退け」との血書が送られて来たこともあった。

明治三十八年の秋、高輪御殿に於いて、北白川宮殿下の御前で「涙の雨」上下二段を献奏、更にお望みにより三曲を献奏した。これが先生最初の御前演奏となる。

 

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明治三十九年三月二四日、永田先生は同志と共に「黄嘴会」を組織する。

人気益々盛んとなり教えを乞うものが多くなったので、芝・西久保巴町の吉田錦芦氏宅を教授所とし、明治四一年の春、永田先生の永の字を「、」と「水」に分け会名を「一水会」とした。

そのとき発表された先生の主張は、個人の特徴はそれぞれにあるものだから、それを生かすべきで、師は自分の型を弟子に無理強いすべきではない。

しかし従来の薩摩琵琶のように文意の段落にかまわず、勝手に琵琶を息継ぎのように弾いてはいけない。

また、鹿児島の一流派のようにラリルレロの発音の不明瞭な謡ぶりは宜しくない。

文意を大事に、明瞭に発音し、初心者にもわかるように謡わねばならない。

これが錦心流の特徴を鮮明にした根本的な所以であり、やがて錦心流と称する一派を形成する基になるのです。

しかし錦心流は益々当時の薩摩琵琶弾奏家から敵視されたのです。

明治四二年四月三日、和強楽堂において第一回の一水会大演奏会を開催、その時初めて門下に対して正式に水号が授与され、榎本芝水、石川萍水、大畑墨水、有坂秋水、佐藤筑水、福島花水、上林荷水、の各氏が初めて水号を名乗るようになったのです。

明治四三年、永田先生二六歳のとき、馬場宮内省主馬頭の御養女政子女史と御結婚、前途益々洋々、ご多幸な日々が続いた。

明治四五年、本郷座に於いて三日間にわたり大演奏会が開催された。

主催は錦心会とされ、永田先生の後援会が組織された。

錦心流琵琶と名乗ったのは大正二年八月一六日和強楽堂においての連合琵琶大会の折り、当時、東京府教育会付属・和強楽堂の演奏係長であった椎橋松亭氏が従来の薩摩琵琶と区別するためにプログラムに「錦心流琵琶の部」と印刷したのが始まりとされている。

永田先生を宗家と名付けたのは、大正三年一月号の琵琶新聞紙上で、田村鐙滔水氏が「錦心流琵琶宗家・永田錦心師出演云々」と演奏会の広告をしたのが始まりで、正式に宗家と発表されたのは大正四年一月です。

大正四年三月四日、当時、芝桜川町の永田先生宅に、榎本芝水、田村滔水、椎橋松亭、

松本勘次郎の五氏が集まり、一水会の改革を協議した。

一、既設の一水会の支部を全廃にする・。

二、錦心流琵琶の教授所を開設希望する者は宗家より教師免状を受けること。

三、一般門下に階級を定むこと。

初伝、 中伝、 奥伝、 皆伝、 総伝

四、奥伝及び皆伝免状は宗家及び三名により審査のうえ、連署を以って授与するものとする。

五、審査員  田辺枯水、 榎本芝水、 田村滔水

 

大正四年四月一日、新橋竹川町の新橋演芸館において椎橋松亭氏が宗家を代理し、錦心流の新規則の説明発表があり、最初の免状の授与式が行われた。

かくて錦心流の組織は益々拡大し、一般大衆からも大いに歓迎され、門下の水号者は年々倍加の勢いで増加していったのです

大正九年一月一日の水号者は七三一名、五年後の大正一三年九月には三五七七名、更に昭和二年には約六千人に達し、初伝中伝の門下に至っては数万を数える盛況でした。

先生は伏見宮をはじめ各宮家のお召を受け、更に大正天皇の前での御前弾奏の光栄に浴することしばしばでした。

先生は多芸、多趣味で各方面に天才ぶりを発揮されました。

謡曲は宝生流を能くし、その師匠よりもはるかに上手と言われ、仕舞も実に巧妙で、茶道は夫婦そろって研究されていた。

俳句は二十歳のころより子規派に学び、俳号を「牛骨」と号し子規の「錦心繍腸柘榴と号す」の句より取って「柘榴子」とも号された。和歌は万葉集、金塊集を親炙し、幾多の歌を遺しておられます。禅学にも凝って二十八,九の頃より卜筮の術に長じておられた。

 

 

 

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一水会創立後約半年で先生の直接教授は廃止され吉田錦蘆、田村滔水、田辺枯水、有坂秋水、酒井流水、大川稜水、田中芳水、飯田滴水、松田静水、石川萍水、石田鶴水、高橋鵬水、山口春水等の高弟が稽古所に住み込みで代稽古をしていました。

先生の邸宅が千駄ヶ谷に移られてからは、建物は稽古所と試験所に使われていたが、

大正1291日の関東大震災で焼失。

先生は全国各地で開催される演奏会、日曜日ごとに行われる昇伝試験などで多忙を極めていた。また錦心流の歌曲の大半は作詞家と先生の合作と称しても差し支えないものです。

自作の曲としては、河中島、横笛、景清、天目山等などがあり名曲として知られている。

大正131227日、結婚12年目にして長女瑞枝嬢がご誕生、ご一家はもとより一門数千人の喜びであった。

この前後数年間のご活躍は目覚ましく、遠くは満州、朝鮮、台湾、全国津々浦々に及び足跡を残さぬところはない位であった。

朝から門人の応対に追われ、午後は絵筆を執られ、夜は演奏会出演と暇のない生活であった。そのためあまりに忙しいときには母堂や夫人から健康を案じて注意されることがしばしばであったという。

しかし先生は自分の一生は琵琶と戦い通すのだと言って顧みなかったそうです。

大正144月に、雨宮薫水、浅野晴水の両氏を従えて海外を巡遊し、帰国後胃腸を病んでよりのち先生の健康は次第に勝れなくなり、更に大正156月には中沢錦水、谷歌水らと共に台湾に巡遊後、再び病床に就かれ、以来著しい衰弱が見受けられるようになる。

その後も高熱をおして演奏会に出掛けるなどして、昭和23月遂に腎臓を病むにいたり、

医師の勧告で1年間の静養する旨の発表がされた。

千駄ヶ谷の自宅で療養に努められていたが病間を偸んでは新曲の作譜をされたり、かねてよりの計画であった、愛吟集の注釈、謡い方の著述に専念。

昭和28月に愛吟集琵琶歌の研究の第1巻を発行され、続いて第2巻が出版されたが、病状が進み、遂にそれも断念せざるを得ないことになった。

昭和25月には高弟9名に錦号を授与される。

榎本錦意、福沢錦凌、山口錦堂、松田錦鳳、中沢錦總、秋本錦汀、大館錦旗、雨宮錦峰、

水藤錦穣の9氏です。

同月、中沢錦總氏が宗家代理として昇伝試験の審査にあたることになった。

先生の病状は一進一退の状態であった。その間も美術院の展覧会に行くこともあり、病においても長年の研究を怠らない先生であったが、その後、日一日と病状は悪化し、昭和2925日、26日一時は危篤の状態に陥り、東大の稲田博士の来診を受け、中沢錦總氏の尽力により中井房五郎氏の治療を受けるなど手を尽くした甲斐があり奇跡的に快方に向かわれたが、昭和21030日再び絶望の状態になられ、夫人に後事を託し、親戚縁者の見守る中、ご母堂に家は浄土宗であるが私の亡き後は神道にて弔らってもらいたいと遺言し、43歳の壮齢を以って安らかに大往生を遂げられました。

 

昭和2112日葬儀は神式で行われ、青山斎場において盛大な告別式が行われ、堀内火葬場で荼毘に付され、昭和21128日に多摩墓地に納骨されました。